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いつでも渦中に居たい。根本はそこなんだな。

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高校の時にふと気付きがあった。
「わかりやすい」あらゆる体制批判が表現に添加されていれば、
「なんとかなって」しまうということ。
すこし社会のことに興味を持って本でも買おうとすれば、
なにやら難しいがあらゆる負の現実の因果を解明しようとしている。
そして往々にしてその敵は国家、及び保守の思考をもったものたちなのだ。
勿論、現実的に貧しい生活をしていた我が家はマイノリティの境遇、自らをマイノリティというのはきらいだが、
保守の思考の利益を享受できる存在ではなく、
むしろ搾取されていたから、左翼的思考のありかたは理解、というか、当たり前のように思えた。

しかし、そこに同化するのはナンセンスだと思ったし、
なにより、最終的に批判行為で発言が最終決定するのは大変稚拙さを感じた。
そしてまずは、批判の思考より、保守と言われる建設のエネルギーを知りたいと思った。
それを知らないと本質的な批判は誕生しない。
それは表層の、小さなトピックごときに一喜一憂することに人生が終始したくないという直感による回避でもある。
(そう、小さい問題を首の血管グイグイ弛緩させ、空間を言語によって支配する人達。あれはどうしたらよいか。このとしになってもうまく受け止められない。時間は有限なのに、乱暴な人々だ。)


そう、だから右翼や天皇民俗学を調べた。
みんなが守ろうとする国というもの。
それは一体なにか。

結局、抽象概念、お金の歴史、憲法、芸術、この4つに現在は集約され、世界のなぞはまだこれらに隠されていると思うが、
社会的に外部と関係を持ち生きる自らの心という生物が変動を繰り返し、
調べものは遅々としてすすまないのだ。